- 一流のブランドの衣服を身に着ける
- 頭がよく見えそうな単語を使う
- 喋り方や表情をデキる人風に変える
など、自分をすごく見せるため(ナメられないため)に、行動や外見の一部分のみをランクアップしよう!という類のテクニックが本や雑誌等で溢れていますよね。
こういう手法に手を出し、少しでも自分に自信をつけたい(自信があるように見せたい)と思う気持ち、理解できます。
しかし、人間は案外相手のことを鋭く観察しているもので、そのような一部分だけゲタを履いたテクニックは見破られてしまうことが多いです。
そうなると逆に「自分を大きく見せたい見栄っ張りな人なんだな。自分に自信がないんだな。」という印象が強く残ります。
さらに「この人は、一のことを十位に大きく見せる可能性もあるから、話半分に聞いておこう(´д`)」と会話や行動を警戒される可能性もあります。
要は、胡散臭いのです。
「でも人間は見た目や雰囲気に左右される要素が大きいから、やらないよりは確実に効果があるはずだ!」と感じる方もいらっしゃると思います。
私はそれでも、やっぱり効果がないと感じます。
さらに言うと、費用対効果が悪く、経済的損失も大きくなることから、おすすめしませんん。
理由を分野別に書いてみます↓
- ファッションのゲタ:一流風の着こなしをする
- 知性のゲタ:難しい単語を使う
- リアクションのゲタ:喋り方や表情を変える
- 見栄代で自己破産する人もいる
- マスコミの扇動
- 「標準モデル」という人工的な幻想
- すごい人よりも、素直な人の方が好感度が高い
- まとめ
ファッションのゲタ:一流風の着こなしをする
一流ブランドの物を持ち、ハロー効果で自分の価値を底上げする、という手法は、モノや組織で自分の価値を証明していた、1990年代位までの帰属欲求世代によく見られる特徴です。
現在はブランド品を印籠のように持ち歩く人は絶滅危惧種並みに減っていますし、ブランド物の衣服や小物で相手を尊敬したり、スゴイと思う人も稀です。
(一部の自分に自信がなく、依存的なタイプには効きます)
また、ハイヒールを履いてセレブ風OLファッションで通勤、など、一部分だけ上流階級の真似事をしても、生活スタイルが全く違うので不都合が生じます(靴擦れして足が血だらけ)
労働者はローヒールで快活に動き回るのが、魅力的なデキるいい女のスタイルだと思います。Tシャツ通勤の方が絵になりますね。
エルメスの鞄を持ってアパートから出てくるのを目撃してしまったら、そっと見なかったことにしてあげたい程、痛々しいです。
本質を見る目のある人は、ブランド品を持つこと自体よりも、着こなし方や手入れ状態を観察しています。
知性のゲタ:難しい単語を使う
エセインテリが真っ先にやりそうなことですが、しったかぶり、頭よく見せたいオーラは、本人が思う以上に周囲にバレます。
また頭がよく見える単語ワード集のような本も出ていますが、会話や文章の一部分だけの言葉を上級にしても、全体の論理構成力や着眼点の鈍さ、前提の甘さ等が見えると、一気に虚飾感が強くなります。
ただし、初対面など数分程度の会話ならバレない可能性は高いです。
逆に言うと、数時間、数回じっくりと話せばバレてしまうので、長い付き合いをしたい場合は避けた方が無難だと感じます。
リアクションのゲタ:喋り方や表情を変える
ノリや声のトーンを変えて「イケてる風」にする手法は学生が真っ先とりがちな安易な手法だと感じます。
それと同じ流れで、声のトーンや表情を変えればすごい人風に見える、好感度が高くなる、という手法が正攻法のように支持されています。
これも上記した知識のゲタと同じで、初対面や数分程度の付き合いなら通用すると思います。
しかし、長期間、高頻度で付き合う場合、リアクションや声のトーン等よりも、性格的な要素の方が重要になります。(誠実さやモラル意識、価値観の相性等)
爽やかな笑顔、ハツラツとした口調で立派なことを言っていても、どこか嘘くさく感じる人は内面とリアクションとのズレが大きい人なんだと思います。
違和感=不正直さですので。
見栄代で自己破産する人もいる
この本の中に、金持ち脳と貧乏脳の例が説明されています。
年収900万円超えの人でも、周囲への見栄のために、常にワンランク上のものにこだわった結果、自己破産しています。(投資の失敗も含め)
このように見栄代が家計の中で顕著に高くなるのは、年収700万円を超えたあたりから見られる傾向だそうです。
このように、周囲のレベルに合わせるために無理をする、体裁のために支出する・・という習慣は貯金できない人の特徴だそうです。
マスコミの扇動
一部分だけゲタを吐いて、自分を大きく見せることにより、コンプレックスを解消する、という手法はこれまでマスコミや雑誌で薦められてきた定番の不安商法です。
不安を作り出すために、あえて劣等感を生み出すような雰囲気を作り、ない所に問題を作りあげて解決させる、という悪質な構造も見受けられます。
「標準モデル」という人工的な幻想
常に周囲の他人と比較し、等身大の自分を認められない、等身大の相手を認められないことは、よく考えると少し病的ですよね。
私達は、社会の刷り込みによって、勝手にこうあるべきだ!というあるべき像を仕込まれて、自分には問題ある、という認識を何度も何度も刷り込まれています。
(こうあるべき子供像、~あるべき大人像、~あるべき家族像、~あるべき友人関係像など)
標準モデルとは、人工的に作り上げられた単なる思想コントロール戦略にすぎないにも関わらず、多くの人は標準モデル=まとも(真人間)だと信じ込んでしまっています。
(そもそもみんなが同じ行動を取ることは不自然であり、異常なことです)
そのため、少しでも標準モデルからズレると「自分には重大な欠陥があるのではないか?マトモではないのではないか?」などと心配しだします。
不自然に矯正された標準モデル(周囲と同じように振る舞ること)、になろうとして、そこからズレている自分を必死に隠そうとする人が見栄(虚栄)を張りやすい傾向があると感じます。
本当は問題視するようなことでもないことまで、重大な欠陥として捉える癖が染みついしまっているような気がします。
ただの相対性(他者との違い)による「差」ではなく、あるべき人間像(標準モデル)からズレた者への偏見や差別が問題なのです。
先ほどご紹介した例ように、あるべき像自体が、集団的な空気感が作りだした虚栄である可能性も高く、そこに身の丈に合わないゲタを吐いて合わせようとすると、支出が増大します。
つまり、無理のない範囲で行動できる人は実はほんの一握りで、多くの人が見栄のために無理をしている・・ということですね。
本質を抑えれば、必ずしも高いレベルの衣服や車、家賃、教育が必要ではないことに気づきます。
(必要性や本人のやる気、目的意識がなければ投資価値は低くなります)
すごい人よりも、素直な人の方が好感度が高い
すごい人に見せるよりも、素直な人になった方が周囲の人も肩の力が抜けて、その人らしくいられるのではないでしょうか。
威圧する人よりも、安心させてくれる人の方が人は好きです。
一部分のみゲタを吐いて自分をごまかし、周囲を威圧するよりも、素直に自分らしくいることを許可してあげればいいと思います。
どうしてもコンプレックスを埋めたい!屈辱を晴らしたい!
という人は、ピンポイントの見栄はりや、ハロー効果を狙うのではなく、コツコツと自分を磨いていくことが、自信底上げの正攻法だと思います。
まとめ
ピンポイントだけ見栄をはってもすぐにバレるので無意味。
経済的損失も大きく、威圧的で余裕のない人が増える。
等身大の自分や相手を受け入れる努力をするか、総合的に自分を磨いていくのベスト。
くれぐれも雑誌やマスコミの宣伝PRを真に受けないことが重要だと感じます。