どうも、日々清掃員のバイトをしながら経済的復活を試みる三条です。
先日まであれほどに嫌悪していた今の清掃のお仕事ですが、一番気に食わなかったのは人事担当の上司だけで、
現場の人たちはみんないい人、職員さんも基本的にいい人達ばかりなので、仕事自体は平和にこなしています。(その上司はめったに現場にこないので)
何より、やはり現場に出勤し、作業をこなすだけで収入が確実に入る、という安心感に救われています。
職場での私はやたら謙虚で愛想が良く「あんた誰?」という違和感を感じますが、平和に、風当りよく作業できる環境作りのために必要だと思って頑張っています。
先日まで、一刻でも早く辞めよう、と思い色々計画を練りましたが、今の状態(新しい仕事を始める準備期間)では、収入がゼロになるととても困ります。
※フリーランスでデビューし、広告費ゼロで、仕事がわんさか来る奇跡を夢見た時代は終わりました・・(遠い目)
代わりに他のバイトも探したのですが、家から近く、時間帯も丁度いいものがなかなかなく、結局今の仕事が一番いいし、作業も慣れているし・・
ということで、経済的基盤が安定するまではこちらでお世話になろうと思います。
今回の件と今までの人生を通して、自立という定義の限界を感じました。
自立した大人ってなに?
よく自立した大人になるために・・とか言いますよね。
しかし、歴史を通してみても人間が本当に自立できていたことなどあるのでしょうか?
経済的自立といっても、ほとんどの人は会社に依存しているし、たとえ自給自足の生活をしていても国家に依存しています。
依存しているかどうか?
はそれが今すぐなくなるとしたら、どんな気持ちになるか?ということを想像してみるとすぐにわかります。
会社員なら解雇になったら今の収入基盤が消えます。
自立して購入し、維持している(と思っている)生活のすべてが危うくなるわけです。
もちろん貯金や失業保険等、他にも頼れるものはありますが、よほどの資産家でもない限り、数年程度で底を尽きるはずです。
もし辞めたら・・と考えると、怖くて辞めることができないなら依存です。
資本家×社員というゴットファザー組織
そもそも、社会制度自体が依存によって成り立つように構築されてきましたよね。
階級制度のしっかりしていた時代だけではなく、資本主義システムが導入された近代でも共依存のシステムを基盤にしています。
かつでのモーレツサラリーマンや過労死問題のような現象は、共依存ならではですね。
集団就職(金の卵ネオ)により、社長と社員はファミリーとなったので、法の死角となり様々な人権侵害や犯罪が横行しました。(学校の体罰も同じですね)。
社長には、社員家族を一生世話をして守る責任が生じ、社員には一生会社と社長に人生と労働力を捧げる忠誠心の義務が生じます。
だから社長は自転車操業で借金してでも、社員達のお給料だけは支払った。
社員もどんなに過酷な作業や長時間労働、体罰やパワハラを受けても文句を言わずに社長(会社)に尽くした。
今でも日本の会社の正社員の解雇が異様に難しいのはこの時代のなごりです。
つまり集団就職で大量に都会に上京してきた若者達の世話をしっかりしてくれ、という国家的プロジェクトですね。
ついでに社員同士で結婚させてしまえば、会社への忠誠心(依存度)も上がるし、労働力も増えるし、効率的だよね?→会社員×専業主婦の核家族モデルの誕生。
ということですね。
しかし高度経済成長期が終わり、経済的な基盤が崩れてくると、会社はもう社員の保証を提供できなくなります。
保証を提供できなければ、当然忠誠心も引き出すことができません。
つまり、保証と忠誠心のトレードは高度経済成長期の終焉とともに終わったのです。
派遣会社が労働者の権利意識を復活させた理由
その代わりに、派遣という新しい仕事スタイルが採用されました。
派遣会社が多くなると、今度は不当労働、過剰搾取という、いわゆる労働者搾取(蟹工船問題)が話題になりましたね。
これは派遣が特に悪どいことをしていた(のかもしれないですが)だけではなく、派遣は従来型の日本の会社のような共依存の仕組みを採用していなかったからだと思います。
つまり会社は労働者を保証しない、労働者も会社に忠誠心を持たない。依存しない。
だから権利意識が発生します。
例えば、兄弟の頭を殴ったり、お母さんの財布の中から千円抜き取っても、警察沙汰にはなりませんよね。
しかし道端で他人の頭を殴ったり、他人の財布から千円を抜き取れば、警察に通報されます。
法律は家族間のことにはなかなか踏み込めないですが、家族という死角の外ならちゃんと機能します。
初期の派遣労働者は辛い思いを沢山されたと思いますが、そのおかげで労働基準法やパワハラ問題という日本の労働現場に潜む隠れ犯罪を減らす好機にもなったと思います。
つまり共依存が恐ろしいのは、保証と忠誠心のトレードが起きるため、搾取構造の中に取り込まれてしまうことです。
労働者だけはなく、使えない社員を簡単に解雇できないくそシステムを背負わされた日本の社長(企業)も被害者です。
とにかく私たちは常に選択の自由、生活の自由、思想の自由を奪われるよう国策によりコントロールされています。
そんな中で、自立とはいったいなにか?
と考えると、社会の仕組みの枠から出ることだと感じます。
ここから話が一気に飛躍します。
潜在意識分野やスピリチュアル分野でよく言わる、世界=自分(この世界は自分の意識が映し出した投影である)という考えしかないと思います。
この世界がシュミレーション宇宙説で言われているような、自分の脳内が作りあげたヴァーチャルなものならば、自立という概念も消失します。
自分=ゲームの中の一人のキャラクターに過ぎず、本当の自分はすべてを映しだしている存在なのだから、個人も客体もありません。
自立もなにも、すべては自分が作りだしているのだから、何も依存するものがありません。
ニーチェも超人になることを提案していますが、要は世界=自分という結論に辿りつくものだと思います。
最終的にはちっぽけな人間には自立も依存もコントロールできないのではないか?と思っています。
かなりぐちゃぐちゃな内容になりましたが、以前から考えていたことのまとめメモでした。
社会の仕組みを見抜くのはたやすいです。私と同じ凡人が考えることですから。
ゴールから逆算し、どこに利益が集中するのか調べればすぐにわかります。
しかしそんなことを調べていても、いつまでも真理には辿りつけないし、そんな仕組みの中で冷めた心を持ちながら奮闘するのも辛いです。
※ もし資本主義が終焉し、ベーシックインカム制度などが取り入れられたとしても プロレタリア vs ブルジョワの対立が崩れるだけで、
今度は国民 vs 政府 、レジスタンス vs 軍などのような新たな対立が生まれ、またそこで自由を得るために戦うはめになるような気がします。
だから私は仕組みの中で、ひっそりと無理せずに生きられるよう工夫し、本当の自由と安らぎを取り戻したいと思います。